【全5話・第1話】痛バと戦う社畜の悲劇
人生で最も心臓が止まるかと思った瞬間は、推しの限定缶バッジを電車内で撒き散らした時だと思う。
改めましてどうも、しがないIT企業勤務の30代独身男「タカ」です。
平日は会社と家を往復するだけの干物サラリーマンだが、週末は怒涛の変身を遂げる。
俺の生きがいは、絶大な人気を誇るオルタナティブロックバンド「メテオ・ストライク(通称メテスト)」の推し活だ。
ボーカルのREO様の歌声に脳を焼かれて早3年、給料の半分は痛バッグの作成と全国遠征費用に消えている。
その日、俺は半休を取って限定ライブイベントに参戦予定だった。
痛バにはギッシリと並べられたREO様の57mm缶バッジとラバーストラップ、参戦服の背面には手作りのラミネートカードを仕込み、気合は十分。
会社には絶対にバレないよう、ビッグサイズの黒パーカーで痛バごとすっぽり覆い隠して通勤した。
「ふふふ、定時(半休)になった瞬間、俺は戦場へ旅立つ…」と、完全に怪しい不審者スマイルを浮かべていたのが悪かったのだろうか。
社屋の最寄り駅のホームで、人波に押された瞬間に事故は起きた。
痛バのファスナーが半開きだったのだ。
「あっ」と思った時には遅かった。
パーカーの隙間から滑り落ちた痛バから、大事な大事な「1個3000円でメルカリで転売されていた超レア缶バッジ」がポロッと溢れ、カツンと乾いた音を立ててホームの床を転がっていったのだ。
「うわああああっ!!」と声にならない悲鳴を上げ、必死に這いつくばって缶バッジを回収しようとしたその時。
「……これ、落としましたよ?」
頭上から聞こえたのは、聞き覚えがありすぎる冷徹な声。
見上げるとそこには、我が部署の鬼上司・鬼頭(キトウ)課長が、俺の激推しREO様のドアップ缶バッジを指でつまんで立っていた。
俺の社会正義、本日終了の知らせであった——。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。